中国史書から日本に関する記録が途絶える「空白の4世紀」をめぐり、箸墓古墳を卑弥呼の墓とみる畿内説と九州東遷説が対立し、出土証拠の有無を巡る期待と懐疑が反応を呼んでいる。
スレ本文抜粋
卑弥呼が治めた邪馬台国はどこにあったのか、ということと同じくらい、いま、注目を集めているキーワードがある。「空白の4世紀」だ。3世紀後半以降、日本列島では巨大な古墳が築かれ始め、やがてヤマト政権が登場する。しかし、その間の約100年間は中国の史書から日本に関する記録が途絶えてしまう。それが、「空白の4世紀」だ。
3世紀中頃から近畿地方を中心に実力者の墓である古墳が築かれるようになり、時代は弥生時代から古墳時代へと移行していく。中国の歴史書によると、卑弥呼死後の266年に倭の女王(壱与?)が魏を滅ぼした西晋に使者を送ったと記されている。それを最後に、中国の史書から古代日本の記録が途絶えてしまう。5世紀に入ると、倭王「讃」が宋に使者を派遣したとみられることから、この段階でヤマト政権が存在していたことは間違いないだろう。266年の西晋への使者の記録から、5世紀の宋への使者派遣まで、つまり4世紀に当たる時期の記録が残っていないところから、「空白の4世紀」と呼ばれているのだ。
空白の4世紀」を挟んで、それ以前の邪馬台国とそれ以降の「ヤマト政権」につながりがあったかどうか定かではないが、その可能性はありうる。築造時期が卑弥呼の没年と重なる箸墓古墳に注目し、これが卑弥呼の墓であると考えると、邪馬台国は大和(奈良県)にあったことになる。加えて、箸墓古墳が、3世紀後半から5世紀の初めにかけて各地に普及しヤマト政権特有の形とされる前方後円墳であったことを踏まえると、邪馬台国とヤマト政権が継続している可能性が高まる。一方で、九州北部にあった耶馬台国が東遷したことでヤマト政権が成立したとする説もある。やはり、「邪馬台国」と「ヤマト政権」の関係は謎に包まれているのである。


5chの反応
【古代史ミステリー】ここまでわかった!空白の150年【西暦266年~413年の謎】
卑弥呼だけどなんか質問ある?
空白の4世紀 400年の間に邪馬台国が滅んで日本は荒れ放題だったのか?
木簡のようなものか? とっくに腐ってるかもなあ でも魏の木簡があったら一気に確定だよな
中華でも、木簡の山が新たに発掘されて歴史を塗り替えることがある 未盗掘の王や高官の墓に被葬者所有の蔵書がザクザク!とか まだ出るよ、倭人関連がでることを期待
そう、馬王と箸墓で400年差、 階段状に掘る墳墓のうち保存状態がいいのが馬王堆 地下に向かって段丘になってんのな (日本のは、逆に地上で段丘に盛る、地下は掘らない) 箸墓のミニチュアをつくって、逆さまに粘土に押し当てると、馬王堆の穴の形になる といえば通じるだろうか? 馬王堆は3基出土 ・長沙国丞相の墓 円に方形が接着している ・その妻の墓 方形 ・その息子の墓 方形
飛鳥の地の高句麗色が強い奴らは 5世紀に渡来してきたとされる東漢氏(やまとのあやうじ) 自称は後漢の王族の末裔らしいけど?こいつらが馬の伝来にも関わってるとか? なんで高句麗壁画古墳作ったのか知らないけど?w あ、オンドルも作ったらしいね?
4世紀から5世紀にかけて高句麗の広開土王がヒャッハーし南下してたから 倭と百済打ち破ったでえw倭に侵略された新羅助けたったでえw という高句麗の偉業をたたえる為に広開土王碑建てるほどに 倭・高句麗戦争で倭は半島での影響力を失って伽耶も新羅に奪われた
うん、そうだな 6世紀はまだ 個人が日記帳みたいなものを持つような時代ではなかった、と言いたかっただけだ あと、朝貢時には、書状を日本側の朝廷で用意して使者に運ばせる、という方法を取れるようになるのは600年(7世紀はじめ)の遣隋使のころからで、 それ以前は、日本側使者が口頭で伝えた内容を、帯方などの地方役人が文書にして、中央に伝送する、みたいなイメージだ
古墳文化ってそもそも中東の辺りから来たものなんでしょ?ディルムンだったっけ?
令和5年特別展『ヤマトと伊都国』 その刊行本『ヤマトと伊都国・邪馬台国畿内説のゆくえ』より ↓ 結論 「これらの考古学的事象を踏まえるならば、現段階では、纒向遺跡が邪馬台国の中心集落の最有力候補と考えられるのではないだろうか。」 以上、福岡県糸島市立伊都国歴史博物館=邪馬台国大和説。